挑戦と失敗と責任

彩香さんが小学校時代の私たちの歩みについて「5つの段階を行き来しながら進んでいる」と捉えて下さいましたが、本当にその通りだと思いました。

中学生になった今もそのことは変わっていません。

ただ大きく変わったこともあります。

それは、学校生活をあえて積極的に送っていることです。

小学校時代は「学校の勉強は古いことしかやらない。運動会なんて運動神経のいいやつだけでやればいい、持久走だって早いやつだけでいい。それ以外のやつには意味ないことだ。

先生はあなたのためっていうけど、自分のためなんだ。」なんて言っていたのです。

それなのに中学では

クラス内で誰も手が挙がらないような役決めの場面で、「自分がやります」と引き受けたりしているそうで、先生から聞いてびっくりしました。

部活は野球部に入り、小学校とは比べ物にならないハードな中学生活です。もちろん相当なストレスがかかっていると思うのですが、「自らの意思で行動する」というような気概でいるように感じます。

小さいときから自分で決めたことはしっかりやるのですが、意味も分からずやらされることには拒否を露にしていました。でも成長するなかで、そこを「自らの意思」にすることで現実を変えていっているのではないかなと推測しています。

とはいえ、バリバリのHSC気質ですし、本人としては凹の穴にストンと落ちてしまったような感覚になることもあります。

先日、HSC息子らしいと思える出来事がありました。

珍しく、お腹が痛いと言って学校をお休みしたのです。

お休みした翌日に先生が心配してお電話を下さいました。その時に聞いたお話しです。

以下先生のお話です。

「合唱コンクールの練習が始まっています。ケンスケ何か言っていましたか?

ケンスケは指揮者に立候補してくれたんです。先日の選挙管理委員にも立候補してくれ、ケンスケがやるなら俺も!と

一緒に手を挙げてくれた友達と仕事をしてくれました。

ただ、今回の指揮に関しては練習が始まるとなかなか思うように上手くいきませんでした。先生と一緒なら何とかできても、1人になるとリズムがとれず頭も真っ白になってしまうと言うんです。そして、自分では指揮者が務まらないので、他の人に代わってもらいたい。と申し出てきました。音楽の先生からは自分でやると言ったのに無責任ではないか。今から他の人に代わって、その人は他のクラスの子より練習時間が少なくなってしまうから、かわいそうではないか。自分からやると言ったことに対しての責任をきちんと問うというのが音楽の先生のご指導でした。それに対してケンスケはちゃんと受け止め、それでも自分にはできない。と言ったそうです。クラスのみんなには私(先生)から話しをしました。ケンスケが自分には指揮はできないので誰かに代わってほしいそうなんだよ。練習する前は挑戦したい、できるんじゃないかと思っていたんだけど、実際にやってみたら難しくて大きなステージでは到底無理だし台無しにしてしまうと思ったんだって。

みんなはさ、練習していてそんなケンスケをみていて誰も何も思わなかったのかな。

自分でやるといったのだからケンスケの問題っていうことなのかな。

みんなの合唱だよね、少しでも上手くいくように、誰か一緒に練習してあげるとかそういう事にはならなかったのかな。このままステージにケンスケを立たせていいのかな。

ケンスケはもう無理だと言ってるんだけど、どう思う?」

すると、1人の女の子が私がやります!と手を挙げてくれたそうです。

私は心配して下さった先生に、本人からは何も聞いてなかったこと、

音楽の先生のご指導もO先生がみんなに伝えてくださったことも、「責任」ということについてとても良い経験をさせていただいたとお礼を言いました。指揮者の子にはきっと感謝していると思うし、すべてケンスケが自分で考えて行動した結果ですから大丈夫です。と伝えました。

私もそうですが、人々の視線や注目を浴びると体が固まってしまいます。ケンスケも指揮をする場面できっとそんな体の反応を自分ではどうにもできずに無理だと判断したのではないかと思います。クラスのみんなが自分が指揮することに対する様々な感情も手に取るように分かったかもしれません。限られた練習時間の中で焦りもあり追い詰められたかもしれません。

母として、ケンスケに思ったことは早めに自分で言い出したことは賢明だったし、

責めに対してもきちんと受け止め、よく踏ん張ってくれたなー。

そして、誰も健介が指揮ができるとは思っていない中、よくぞ自分の可能性に挑戦してくれたということです。

休んだ日、何も知らない私とケンスケは家で次のような話をしていました。

私に話してくれたことは野球のつまずき(練習してもなかなか成果が出ない)から、

気持が落ち込んでしまった。勉強も全然できないし、この先の将来に不安を感じて自分を見失いそうだということでした。

私は、「学校へいかなくてもいいよ。代わりにその時間何かできる?」と聞きました。

「本ならずっと読める」ということでした。

「1日中読める?」

「そうしていていいのなら、できる」

「1日に何冊くらい読めるの?ハリーポッターくらいの本として」

「5冊くらい読める」

「ふーん、それ1週間とか続けられる?」

「うん、そうしていいなら。」

「じゃあ、1ケ月は?」

「できる」

「3ケ月は?」

「できる」

「1年は?」

「そうしていいなら、できる。」

「じゃあ中学校も高校も行かないで、ずっと本読んでいいってなったら?」

「できる。そんだけ本があればできる。でも実際はそんなことできないでしょ。」

「できるよ。ケンスケがそうしたいなら、できるよ。」

「、、、、、、、、、」

「ケンスケが例えば歴史の本を1日5冊づつ読んだとして、1ヵ月だと何冊になる?

仮に100冊として1年で1200冊、3年で3600冊、5年だと6000冊だよね。すごいよね?!」

「すごいけど、でも、本を読んでるってだけで仕事にはならないよね。」

「とりあえず18歳くらいまでなら母さんが働いてるし、仕事しなくても大丈夫でしょ?」

「えっ!?学校行かないで、働かなくてもいいの?」

「いいよ。」


「母さんは学校は絶対じゃない、って思ってる。ケンスケが自分を見失ってしまうのは嫌だよ。ケンスケがしたいことをして、それがケンスケにしかできないことになって、そのことで生きていけたらすごく幸せなんじゃないかって思う」

「分かった。今日は休んで、明日は学校へ行く」

「うん。どうにでも。」


結局、合唱の話は本人から何も聞かされないまま、前日にプログラムを渡されました。

見に行けないことは前から伝えてあったので、「頑張ってね。」とだけ言いました。

当日の朝、お友達が数人うちに集合してくれ「ケンスケ、ケンスケ―!○×◇ (笑)」と

みんな楽しそうに出かけていきました。

夜、「どうだった?」と感想を聞くと

「最優秀は取れなかったけどね。でも楽しかったから良かったよ」と話してくれました。

先生からは、「ケンスケは歌でとても良くみんなを引っ張ってくれました」とメッセージをいただきました。

見に行かれたお母さんからも「ケンスケ最前列の真ん中で、一生懸命歌ってたよ。坊主頭で気合入ってるなーと思ったよ、目立ってた!(笑)」と聞かされました。

やれやれ、楽しく終われて良かった。とこの話も終わりたいのですが

思春期でHSCな彼がこの一連の出来事をそうやすやすとクリアできるはずもなく、

衝撃的?なメモを発見するということが同時期にありました。

HSCという特性をもつ彼の光を眩しく見るとき、その影もくっきりと見ることがあります。

具体的なメモの内容は書けないですが、ケンスケはもう一人の自分との葛藤の末に行動を決めていました。

すぐには書けないかもしれないけど、そのことも又書いてみたいと思います。

心にリモコン

『自分を動かすリモコンを頭に持たせるのは嫌なんだ。心に持たせていたいんだ!』息子けんすけ(当時小5)が学校に行きたくないその理由を泣きながら叫んだ。友達も好き、休み時間も楽しい、勉強もできるようになりたい、でも学校へは行きたくない。さあ、どうする!? 感覚が敏感で繊細なHSCという特性を持つ息子との日々…。子育て備忘録。

0コメント

  • 1000 / 1000